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#152

「感想を持つこと」を大切に【ゲスト:國友尚】

今回のゲストは、総合演出家の國友尚さんです。大学在学中からの放送作家/演出家としての活動を経て、2005年からはYahoo!JAPAN、KDDIなどでインターネットサービスの企画・開発に携わられます。2018年にアソビジョンを創業。エンタメ、メディア、I T、都市開発など、幅広い領域での価値創造に取り組まれつつ、感性工学の研究者として日本創造学会論文賞を受賞。現在は慶應義塾大学ヒューマンシステムデザインラボ感動研究グループ長としても活躍され、さまざまな分野で“感動の創造”に取り組まれています。これからの展望や今注目することを深堀ります。

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#151

さて、今回のテーマは、主宰・二村が以前からことあるごとに唱えている「シミュレーション仮説」について。じつはぼくもこれには昔からうっすら賛成で、この世のすべては、何者かがプログラミングした箱庭なのではないかと、にらんでいます。 たとえば、世の中には宝くじが当たるような「運営(神)」からやたらと優遇されている主人公キャラが確実に存在します。イーロン・マスクやビル・ゲイツ、大谷翔平のような勇者たちがそれです。 彼らは、未来のぼくらの子孫が「おじいちゃんたちが別の選択をしていたらどうなるか?」を検証するために走らせている、壮大な祖先シミュレーションゲームの主要プレイヤーなのです。 では、ぼくらおじさん3名の役割は何なのか。当然、主人公ではなくモブ中のモブなのですが、二村曰く「インディーズ枠のバグ誘発種」なのだそう。 メインストリームだけでは世界が均質化してつまらなくなるため、あえて主流に反発するようなサブカル的、アート的なバグの種として、少数だけ配置された存在であると説きます。さらに面白いのが、この世界のシステム的な「仕様」です。 人間が景色や匂いに対して抱く「デジャヴ(既視感)」の正体は、過去の繰り返しではなく、単なるシステムの読み込みエラー、つまりは「グリッチ」とも考えられる。 デジタル画像を拡大するとピクセルが見えるように、この世界をどこまでも掘り下げていくと「プランク長」というこれ以上細かくできない解像度の限界にぶち当たるのも、じつにプログラミング的です。 量子力学の定番「シュレーディンガーの猫」の思考実験も、オープンワールドのゲームに例えれば、すんなり理解できるはずです。ぼくらが今こうして集まっている空間はリアルタイムで描画されていますが、一方で見ていない遠くの街の出来事は、マシンのサーバーがパンクしないように省略されている。人間が観測して初めてその物体がレンダリングされるという仕組みは、まさに最新のゲームエンジンそのものです。 この宇宙において、光速を超えるスピードで移動できないのも、アインシュタインの相対性理論云々というより、単に「運営側のサーバーの処理速度の上限が光速だから」と考えた方が辻褄が合います。ワープやUFO、実在しない国の通貨が見つかる怪事件などは、親会社の違う別のプラットフォームから、バグでアセットがポロりと紛れ込んでしまった結果なのかもしれません。 すべてが最初から決まっている自然のプログラム(決定論)なのか、それとも人工的な機械のプログラムなのか。鶏が先か卵が先かという議論の果てに、二村が「結局、みんなそれぞれが自分の物語の主人公なんだよ」と、気持ちの悪いスピリチュアルなまとめをして幕を閉じました。 せいぜい僕らインディーズキャラは、これからも運営のメモリを無駄に消費するようなくだらない雑談を撒き散らしながら、このバグだらけの日常をサバイブしていく他ないのかもしれません。 TEXT:ユスカル https://www.wowrecords.jp/

全て「運営」のさじ加減!?おじさんたちのシミュレーション【補講・前編】 全て「運営」のさじ加減!?おじさんたちのシミュレーション【補講・前編】 全て「運営」のさじ加減!?おじさんたちのシミュレーション【補講・前編】 全て「運営」のさじ加減!?おじさんたちのシミュレーション【補講・前編】

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#153

これといった明確なテーマを置かない今回は、ぼくのLINEでの発言をきっかけに、ぼくらの日常の観察から導き出した「自分なりの統計学」の開陳となりました。 たとえば、長女はプレッシャーの影響で「貧乳になりやすい」という女医さんのエビデンス(?)や、そこから派生した「子役出身の芸能人は幼少期から大人の世界で立ち回るからホルモン異常で背が低くなりがち説」。あるいはテレビで見かけた「埼玉県は睡眠時間が短いからバストサイズが云々」といった、因果関係はラフだけれど妙にそれっぽい俗説で盛り上がります。 さらに名古屋出身の二村からは「中京圏の古い人間は性格が悪い、すぐ村八分にする」という地元発の強烈な自虐が飛び出します。新潟や長野、京都の卑屈さの歴史にも通じる「地元いじり」ですが、観光地を聞かれて「来ても見るもんないよ」と本気で答えてしまう名古屋の卑屈な空気感は、もはや愛おしさすら覚えます。 そこから成長と栄養の「たまごとひよこ論」や、ぼくら時代の「遠足のお菓子代は三百円か百円か」という物価の話を経て、大人の男の「嗜好品と男らしさ」へ。 40歳を過ぎてスナック菓子やカルビが重くなるのが大人の男らしさ(少年性)かと思いきや、話は「あざとさ」の境界線、いわゆる「やってる/やってない」のボーダーライン検証へと突入しました。 この「やってる」というのは、一周回ったあえて感やわざとらしさ、自分へのジャッジの甘さが見えてしまうポーズや仕草のこと。 たとえば、高円寺あえての四畳半界隈が着る「ラクトコーヒーTシャツ」や、明治、ビスコ、キッコーマンといった国内の企業ロゴTシャツ。 二村のジャッジでは「コカ・コーラやトヨタは市民権を得ているからやってないが、ビスコはやってる」。さらには、現代の電車内で紙の新聞を綺麗に折りたたんで広げる行為や、ネットで買えるのにわざわざジャンプを紙で読む行為も、完全に「やってる」に認定されました。ちなみに、二村が「日暮里」とデカデカと書かれたTシャツを背負っているのも、ぼくから言わせれば完全に「やってる」側です。 自分ではナチュラルだと思って手に取っているものが、じつは周囲から「やってんな」と思われているかもしれない恐怖。自己認識のズレを徹底的に炙り出すため、次回は各自が「これ、やってる?」と思うギリギリの勝負服やアイテムを持ち寄る「やってるコレクション」を開催しようかと(曖昧)。 皆さんも、自分が無意識に「やってしまっている」ボーダーラインを見つめ直しながら、次回の泥仕合を楽しみにお待ちください。   TEXT:ユスカル https://www.wowrecords.jp/

ぼくらの偏見統計学と、あざとさの境界線「やってる」問題【補講・後編】 ぼくらの偏見統計学と、あざとさの境界線「やってる」問題【補講・後編】 ぼくらの偏見統計学と、あざとさの境界線「やってる」問題【補講・後編】 ぼくらの偏見統計学と、あざとさの境界線「やってる」問題【補講・後編】