#128
何かを手放すとは?【補講・前編】
こちらは日暮里ゼミナールの補講の第63回となる#128です。 補講メンバーが2025年に手放したもの、これから手放そうと意識しているものについて、ゼミ長・二村康太を中心に考えます。
新年一発目の補講となる今回は、
ディレクターからのタレコミ
「最近は“買ったもの”より“手放したもの”の方が話題になる」
をヒントに、我々おじさんが2025年に手放したもの、
あるいは手放そうとしているものについて語っていきます。
私(ユスカル)は、幼い頃からいわゆるコレクター気質で、
学生時分はレコードや古着などを集めていましたが、
15年ほど前からそういったモノをせっせと手放し続けています。
そのこころは、
「モノを持つことは、ある種の“ポジション”や“ステータス”を維持することに他ならない、言わば弱者的行為」
という思いに至ったから。
かつての裏原宿に代表される90sカルチャーがそうであったように、
レアなスニーカーやレコードで壁(内面)を埋め尽くす行為は、
ある種の武装であり、それを捨てることはすなわち、プライドを捨て、
丸腰の自分(余白)で勝負する、したい、という考えに至ったからです。
これには二村も激しく同意。
「かつては『日経新聞』や『NewsPicks』など、ビジネスマンとして
読んでおかなければならない(とされている)メディアを必死に摂取していたものの、
それらは単なる「武装」に過ぎなかったと気づき、全て手放した」
と、言います。
さらに、これまで「こいつムカつくな」と思いながら、
確認作業のように見ていたテレビも、
「マズイとわかっていて、あえて食べる行為」、言わば怖いもの見たさ
と相似形であり、時間の無駄でしかないと悟り、ついに手放せたと告白します。
一方で、田嶋は
「ぼくはまだ何も手放せていない」
と苦笑い。
「モテたい」「よく見られたい」という煩悩の炎は、
種火となっても、いまだ彼の中で燻り続けているようです。
モノを減らすミニマリストが「貧しい」のではなく、
選択と集中による「ビルドアップとアップデート」段階に入っているのだとしたら、
我々はまだ、不要な贅肉(プライド)を抱えたまま戦っているのかもしれません。
後編では、そんな捨てきれない煩悩の正体と、
それらに紐づく承認欲求について議論していきます。
TEXT:ユスカル
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